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南島叢書

唄者 武下和平のシマ唄語り CD付

注文する書籍の紹介武下和平 著
第1部 誌上シマ唄入門教室

はじめに

(清) 読者に、シマ唄の手ほどきを武下師匠からしていただこうと思います。
以前、私は加計呂麻島の徳浜(どぅっかま)にある榊藤光さんの「珊瑚塩工房」で、そこはポンプで汲み上げた海水を釜に入れ薪で炊いて煮詰めて塩にする、昔通りのやり方で塩づくりをしているのですが、その塩炊きを引き受けている渡連(どぅれん)出身の渡崎弘三さんに聞いたことがあるんです。
彼は三十年ぐらい大阪に出ていたわけですが、そのときに尼崎の師匠の武下流シマ唄教室に通ってシマ唄を身につけた。そのときの練習のやり方についてです。彼によれば、武下師匠の教え方の基本は、一対一の膝突き合わせての個人指導にあった。それぞれの進度に合わせて級が組まれ、一通り皆で一緒に練習し基本的なことを習った後、次に一人一人が師匠の前に出て、ポイントとなる点をおさらいさせられたりしながら、個人的なアドヴァイスをもらう。たいていそれが一人二十分ぐらい。他の人は自分の番が来るのを待ちながらその様子を聴いているし、自分の番が終わった人も、他の人の場合について興味津々耳を傾けている。それは、個人指導という形をとった教室全体への指導でもある。その師匠のやり方が実に丁寧親切で役立った。自分への直(じか)のアドヴァイスは身に沁みたし、他の人がもらうアドヴァイスを聴くことも、比較をとおして自分を掴むことだから実に役に立った、と。
ですから、読者でほんとうにシマ唄を自分でもやりたいという気持ちになった方は、それはもう直に師匠のところへいってもらうのがベストなわけです。なにせ一人一人の個性・癖に合わせて勘所を習得していかないと、唄は身につかないわけですから。
しかし、師匠に接する機会がない人がほとんどなわけですから、こういう「誌上シマ唄入門教室」の試みも、シマ唄の世界をちょっと覗いてもらい、興味をさらに一歩二歩すすめてもらうためにはけっして無意味なことではなかろうと。

(武下) それで、まず四曲選んでみたんですよ。奄美シマ唄の三点セットといえば、「朝花節・俊良主(しゅんじょしゅ)節・黒(くる)だんど節」なんですが、しかし、これは実は初心者にとってはいきなり取っ掛かるにはまだ節が、つまり曲が難しすぎる。それで、この三点セットの前にまず曲のとっつきやすい次の四曲についていろいろな点を少し解説する。そして歌い方の注意点なども話す。そうすることで、シマ唄についてほとんどまだ何も知らない読者の方にとっても、「ああ、そういうのがシマ唄の世界なんだ!」と親しみやすくなると思ってね。
「行きゅんにゃ加那節」・「ヨイスラ節」・「糸繰り節・心配(しわ)じゃ節」、そして「豊年(ほうねん)節」、この四曲、そして「糸繰り節・心配(しわ)じゃ節」がもともとは仕事唄であったこととの面白い関係で、あとで話題になる「黒(くる)だんど節」を取り上げようと思います。

(清) なるほど。それはいいですね。師匠がその四曲をまず選んだ理由、いまいわれた音楽的な難易さという意味でも、それからその唄の背景をなす奄美の歴史や習俗など、いろいろな観点からも、シマ唄の本質・シマ唄の魂に迫るうえでその四曲が意味深いという点、まずそのことを語っていただく。
歌詞の意味、どんなことが歌われているのかという点も少し突っ込んでお話しいただく。それにまた奄美方言、つまり「シマ口」ですね、その歌詞を発語するにあたってどんな口の動かし方が、あの独特な奄美方言の音・声音を生むかという問題、それにもぜひ触れていただきたい。
もちろん、節、こぶし、声のひっぱり方、伸ばし方、間の取り方、つまりリズムの取り方、囃子の入り方、囃子との呼応の関係とあの裏声の出し方との関係、三味線との関係等々、そういった唄を歌うときの基礎中の基礎にかかわるポイントは何か? 
あらかじめ頭に入れておけば、練習が進むにつれて、あらためて振り返って、なるほどまさにそれがポイントだったんだと、歌の理解がいっそう進む。そういうさまざまなポイントをこの四曲をとおして読者に知ってもらう。
そして、最後に「黒だんど節」のもつ面白い問題にも触れていただく。そんな風にこの「誌上シマ唄入門教室」を進行させてゆきましょう。


シマ唄基礎知識

シマ唄とは「集落の唄」のこと

(武下) 「シマ唄」というと、海に浮かぶあの「島」という意味にとって、もちろん奄美大島は大島をはじめとして、喜界島、徳之島、沖永良部、その他にも大島南部の瀬戸内町でいえば与路島や請島など、そもそも群島からできているのだから、まあ「島唄」のことだと取る人が多い。それは無理はない。ですけど、実は「シマ」とは、元来の意味は自分たちの領分つまり集落のことなんです。

(清) たとえはちょっと悪いけれど、本土でもヤクザが「俺らのシマだぞ、ここは」なんていうときの、あの「シマ」ですね。

(武下) 奄美の唄が「シマ唄」と呼ばれるのは、やはり奄美ならではの事情が大いに関係しています。特に瀬戸内町のあたり、ここは奄美空港のある北部の笠利地方に対して「東」という意味の言葉で「ヒギャ」と呼ばれてきたのだけど、ヒギャなんか実際各集落はそれぞれ陸の孤島のようなところがある。山は低いが海岸まで落ちかかって、猫の額ほどの入り江の一角が集落のある場所です。その一角は海から見れば非常に入り組んだリアス式海岸のなかの奥まった一角か突端の一角です。今でこそ、舗装された立派な道路が山々の峠を縫って各集落を繋ぎ、そこを自動車で楽々ゆける。しかし、実はそれも戦後、高度経済成長が始まり、奄美特別振興法が制定され、土木工事が猛烈に始まってからのことです。最初の頃は、名瀬からヒギャの中心である古仁屋にバスで来るにも四、五時間かかったし、それ以前だったら、隣の集落に行くにも獣道に近い細い山道を歩いて峠を一つ二つ越えてやっと着いた。海まわりの方が楽で速い場合も多々ありましたが、その場合でも舟はリアス式海岸を浜伝いに回りまわりやっと隣の集落に着いた。この意味では、集落は「シマ」であるとともに陸の孤島の「島」でもあったといえます。
一言でいうと、集落=シマはどれもそれぞれ自給自足の独立した小宇宙だったのです。だから、隣の集落同士であってもですよ、使う言葉が違うということが結構あった。その事情が一番よく出てくるのが、あとで取り上げる、シマ唄の基礎にある奄美の豊年祭である「八月踊り」で踊りながら歌う「八月唄」とその踊りです。隣の集落でも、踊りの節も仕草も唄の歌詞も、大きく違う場合も微妙に違う場合も含めて、とにかく違う。
だから、ここでまず声を大きくしていっておきたいことが一つあるんですよ。
それはね、この本で、私はこの唄のこの歌詞はこうで、こういう意味だということを述べますが、それはあくまで私が「ヒギャ」つまり瀬戸内町で、しかも瀬戸内町でも私がよく知っている限られた範囲で、私が知っている歌詞とその意味を紹介するのであって、違う集落、違う地域にいけば、それは違っていて当たり前なんだということなのです。私の意見では、どこの集落の唄が本家で、それが正しく、それと違っているのは間違いであるという風に主張することは、奄美のシマ唄に関するかぎり間違っていると思います。
本家も分家もない。正しいも間違っているもない。シマ唄が、シマつまり各集落で違ってくるのは当然であって、その違いを《正しい・間違い》の問題として論じるのは間違い、違って当たり前であると。ところが困ったことに、得てして、本家意識に取り憑かれることが多い。だからね、敢えて最初に強調しときたいのです。
これからの話のなかで、あの人はこういってるとか、あの集落ではこうだという話が時々出ますけど、それは何も正誤をめぐる論争をしようという気で出したわけではないんです。まあ、面白がるために出してるわけですよ。シマごとにこんなに違って面白い、と。

(清) あっ、そのことは私が「古仁屋八月踊り芸能保存会」の会長を長くやってこられた富島甫さんと共著で『奄美八月踊り唄の宇宙』(海風社)を作ったとき、富島さんもとても強調していました。八月唄はほんとうに集落=シマごとに違う、他方、三味線唄としてのいわゆる「シマ唄」の場合は三味線で奏でる節も歌う歌詞もかなり統一され全島共通といえるから、どの集落でもやれるし、各集落の人達に受け入れてもらえ、楽しんでもらえる。ところが、八月唄の場合は無理。古仁屋の八月唄を、たとえば隣の集落の清水でやっても、清水の人はそれは自分たちの八月唄とは違うから楽しめんということになるし、逆もまた然りですよ、と。

(武下) その通りですよ。シマ唄で唄遊びをする場合に必ず声ならしと場の浄めの意味合いで最初に歌われる「朝花節」の二番にこうある。
「参(うも)ちゃん人(ちゅう)どゥ 真実(しんじてィ)やらむィ
  石原(いしわら)踏(くみ)きち 参ちゃん人どゥ 真実やらむィ」
「やって来て下さった人こそ 真心があるのではないでしょうか
石のごろごろした山道を踏み越えて やって来て下さった人こそ 真心があるのではないでしょうか」
そういう意味ですね。それほどに集落を繋ぐ道は「石原踏きち」の大変な道だった、ということでしょ。それに、昔は裸足だったんですよ。本当に来たいという真実の心がなければ、とてもじゃないが大変で、来れない道だったんですよ。 


八・八・八・六の定型(琉歌形式)

(武下) シマ唄の大きな特徴の一つは、歌詞がみな音で数えて八・八・八・六の定型の形になっていることですね。最初の八・八で上の句を作り、それに対する返しの下の句が八・六。本土の和歌なら、五・七・五が上の句で、下の句が七・七でしょ。この八・八・八・六の形式は沖縄の歌詠みの定型で「琉歌形式」と呼ばれます。
このように音の定型が決まっていることは、シマ唄がその原型ではその場その場の即興から生まれてきたという大事な特徴と深く結びついている。つまり、どんなに即興でも、とにかく言葉を工夫して、それをこの八・八・八・六の定型にはめ込めば、即、それをシマ唄として歌えるということです。曲の方は「朝花節」とか「黒(くる)だんど節」とか、「〇〇〇〇節」と決まっているわけだから、その節に乗せて、定型にはめ込んだ即興の歌詞を唄えば、もうそれで唄になるわけですよ。
今なら、どんな歌にも作詞家がいて、その作詞家が作った歌詞がその歌の歌詞ですね。しかし、シマ唄は違う。同じ名前の唄、たとえば「行きゅんにゃ加那節」といっても、いってみればたくさんの替え歌がある。全部がお互いに替え歌であるといってもよい。集落によっても、歌う人によっても違っていて、しかもその時々、即興で歌詞を変えて歌って遊んだんです。

(清) 思い出しました。富島さんから聞いたんですが、太平洋戦争のとき、家庭で夫やら息子なりを出征兵士として送り出す宴を張ったときには、「行きゅんにゃ加那節」がよく歌われたそうですが、その時の歌詞の下の句はこんなふうに即興で変えられたそうです。
「行きゅんにゃ加那 吾きゃ事(くゥと)忘れィてィ/熊本鎮台かち 行きゅんにゃ加那」・「待ちゅろえ加那 あん神社(てら)こん神社/神様拝とてィ 待ちゅろえ加那」と。(行ってしまうのか加那よ 私のことを忘れて/熊本鎮台から 行ってしまうのか加那/待ってるよ 加那 あの神社この神社で/神様に拝んでおくから 待ってるよ加那。加那とは「愛しい人」の意)

(武下) だからね、たとえば「朝花節」でも武下流シマ唄教室の教本ではその歌詞は二三番までで止めていますが、実は私が知ってる範囲でいっても五十をゆうに超えるほどあるんですよ。「黒だんど節」も然り。それにさっきいったように、即興でいくらでもその場で変わる。この辺が奄美のシマ唄のたぶん他所(よそ)にはあまりない特徴でしょうね。
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