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一般書

翰苑(かんえん)2017.4 vol.7

注文する書籍の紹介姫路大学 人文学・人権教育研究所 著
耕筰・佳三の帰国

 さて、未来社の活躍は後に述べることにして、帰国を目前にした耕筰と佳三の生活を、耕筰の筆になる『自伝若き日の狂詩曲18』に拠って覗いてみよう。
 耕筰は、無事王立音楽院を卒業できたことは勿論、その他にも大きなお土産を三つも用意できた。第一に、三つの交響曲である。卒業制作の日本人で初の交響曲「かちどきと平和」をものにした。三木露風原詞の「暗い扉」とその姉妹編である斎藤佳三原詞の「曼陀羅の華」。この三作品は、帰国直後の日本でも演奏され、「曼陀羅の華」はアメリカのカーネギーホールでも演奏された。
 第二に、「墜ちたる天女」が、本場ドイツで一九一四(大正三)年七月に上演されることが決定されたこと。この上演に必要な舞台装置や衣装を純日本風にすることとなり、日本にさまざまなものを発注しなくてはならず、帰国準備に加えて忙しさは増したが、二人は嬉々として励んだ。
 第三に、最初は佳三の帰路の旅費の工面にと思い交渉したのだが、『日本歌曲十曲』が出版されるようになったことである。露風『廃園』の詩を作曲した九篇に、小林愛(あい)雄(ゆう)の詩による「涙」を加え、小品の楽譜集として用意した。恩師ヴォルフ教授の口添えで、ベルリンのシレェズィンガ出版社から Zehn Japanische Lieder として発行することができるようになり、ベルリン出発の前に、印税を前渡ししてくれた。その処女楽譜集は、残念ながら第一次世界大戦のために結局発行できなかったが、帰朝後、小林愛雄の「涙」を外し、代わりに露風の第五詩集『幻の田園19』所収の「唄」を加え、すべて露風の詩で一〇曲揃えて『山田耕作歌曲集 露風之巻』として、一九一九(大正八)年大阪開成館から出版された。単独詩人の作品で構成される歌曲集は、当時の日本でも珍しく、かなり早い時期に位置づけられるものであった。 
幻の処女楽譜集の印税に加えて愛用のベㇶㇱタィン(ピアノ)が三五〇マルクで売れた。これで旅費もお土産代も整ったと思いきや、ハラハラするようなエピソードが記されていたので、かい摘まんで紹介しよう。
 友人の同窓の友ヴラディミィㇽ・ラツァレビィッチ男爵(表記は耕筰の記載に従う)夫妻がやって来て、一緒に方々へ行った。学生なのに不相応な贅沢をしたのでお金が底を尽き、ロシアに帰る旅費がなく困っているという。耕筰は、ピアノが売れた直後だったので、それを貸してしまう。男爵は帰路の途中のモスクワで逢い、その時に返済すると約束した。
 一二月の末近く、二人は友人たちと別れを惜しんで、日本を目指しベルリンを出発し、途中モスクワに立ち寄る。ロシアの友人ヴラディミィㇽ男爵は来なかったが、代わりにアァニャという貴婦人の館に招かれ、贅を尽くした食事を振る舞われ、各地の観光地を巡り歩く夢のような六日を過ごした。しかし、出発の間際まで借財者のヴラディミィㇽ男爵は現れず、耕筰と佳三は旅費がなくハラハラする。いよいよ出発の列車の鐘の合図が鳴ろうとしたその時、男爵が駆け込んできて、分厚い紙包みを耕筰に渡した。二人は安心して車中の人となり、雪の原野を走り続けた。借金が返済されていなかったので二人は三等車のチケットを大連まで買っていた。寝台列車の上下段のうち下の向かい合わせの席を取ったが、車内は「留置場」のように暗かった。最初の停車駅が過ぎた頃、返済された包みを開けてみると、何重にも包まれたその包みには僅か五留(ルーブル)しか入っていなかった。三五〇マルクは大体一七〇ルーブルになるのに…。耕筰は青ざめた。懐のお金を足しても、ようやく一五ルーブルにしかならない。今黒パンを抱えて入ってきた少年は一〇銭(一円は一ルーブル見当)だと言った。大連まで二〇日もある。どうして凌(しの)いでいけるのかと落胆し、男爵に対して憤慨もした。しかし持ち前の不屈の精神が、「ヴラディミィㇽのお蔭で、ああした贅を極めたモㇲコォの滞在もできたのだ。ヴラディミィㇽが無けりやアァ
ニャもなく、ㇲㇰリャァビンの存在も知らずにしまつたらう。」「モㇲコゥで得た一切はお金で換算できるものではない。」と自身に言い聞かせ「口で芸術家を気取つても、そんな狭量な心をもってゐては、芸術の真味など、判るものではない」と反省もし、暖かい車内で、ミルクと黒パンと鶏肉があればそれで良いではないか、本来の学生の旅に戻ろうと思い直せば心が軽くなり「一人宛七円五十銭で、愈々((いよいよ))シベリアを越える事になつた」。来る日も来る日も続く雪原の旅に、わずかな手持ちのお金から蝋燭を買い、二人で頭を付き合わせて読書をした。
 国際列車ならば、中六日程の行程であったが、国有鉄道の各駅停車の鈍行列車のため、二〇日あまりも要し、その上、各駅の停車時間も長かった。しかし、それはそれでさまざまな民族の人々が観察でき、愉快な体験もした。言葉について考える機会も増えた。
 ハルビンではとうとう手持ちのお金もなくなり、その上、ちょっと油断した隙にコートが盗まれ、寒い駅の構内で暖かい飲み物さえ買うこともできずに震えるはめに陥った。だが、列車の待ち合わせ時間を利用して外出していた日本人の医師団が、幕の内弁当と漬け物と久しぶりの日本酒二本を土産に持ち帰ってくれた。
 次に乗り込んだ新しい三等列車内では、彼等の身なりが良いので訝(いぶか)しがられ、言葉も通じなく険悪なムードであったが、片言で「お金が無い」と大声で怒鳴ったので空気が和らいだ。芸術家だと判ると何か演奏しろとせがまれ、耕筰が提琴(ヴァイオリン)を弾くと喝采を浴び、帽子を回してお金を入れてくれた。一〇留(ルーブル)に満たないお金だったが無一文の二人には有り難かった。「芸は身を助ける」を実感した耕筰であった。その時は「少し変な気もしたが、やはり嬉しかった」と思い、後には「天下の芸術家をもって自負してゐる二人が、遊芸稼人にされたのもいい」と笑い話になった。
 そのお金のおかげで、長春に着いた時、コートもなしで零下三〇度の強風の吹く駅の構内で次の列車を待つことなく、日本風に改造された宿に宿泊し、久しぶりに畳の上に落ち着くことができた。大連にいる佳三の義兄に電話で連絡が取れ、安堵した。佳三も安心して気が大きくなり「遠慮の必要はない」と、二人で「すき焼き」を五、六人前も食べ、義兄の手配してくれた二等車で大連まで行き、義兄の家で歓待を受けた。既に年も明け一月一六日頃になっていた。
 「いづれにしても、もう、此( ここ) 處まで来れば心配はない」
所まで、二人は帰ってきていた。


「三木露風と山田耕筰の友情―耕筰帰国、迎える露風と「未来社」―」和田典子 より
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