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南島叢書

国境27度線

注文する書籍の紹介原井一郎・斉藤日出治・酒井卯作 著
カメジローと奄美共産党

 
「一握りの砂も、一滴の水もぜーんぶ、ワシたちのもんだ」
 戦後、沖縄人民党を組織し、米軍政に抵抗した瀬長亀次郎。彼にはおっかけがいて、カメジロー行くところ、老若男女がその魂を揺り動かす演説を聞き逃すまいと、ムシロを手に殺到。最前列の席を奪い合い、満員の会場は興奮のるつぼと化した。
 瀬長は奄美復帰後に退去命令の出ていた奄美の党員を匿ったとされる、いわゆる「人民党事件」で一九五四(昭和二九)年十月、出入国管理令違反に問われ投獄される。二年後、奇跡の生還を果たすと、沖縄びとは那覇市長選に当選させるが、「赤い市長」の誕生はアメリカに衝撃を与えた。基地オキナワの赤化に怯える琉球列島米国民政府(ユースカー=USCAR)は、瀬長率いる人民党の背景に奄美共産党、さらにはそれを通して日本共産党中央の介在、指導があると疑い、CICを張り付かせ妨害。それにも瀬長はひるまず、演説は舌鋒鋭さ増すばかりで「瀬長ひとりが叫べば五〇メートル先まで聞こえる。沖縄七〇万が叫べば、ワシントン政府も動かせる」と叫んだ。
 奄美共産党の介在 ……。その米国民政府の疑念通り、戦後の沖縄で初の大規模争議となった一九五二(昭和二七)年の「日本道路ストライキ」は、沖縄と奄美を一体化した復帰運動を模索して派遣されていた、奄美共産党オルグの林義己が指導したものだった。
 冲縄では対日講和が間近なこの頃から基地建設が大車輪。清水、鹿島など本土ゼネコン二十数社が参入、基地バブルと化し、「幹部は高級車を乗り回し、現地妻をはべらせ、夜ともなれば地下足袋のまま、桜坂バー街を肩で風を切って歩き、カネの雨を降らせた」(沖縄タイムス『沖縄の証言』)。
 一方、労働者は全国からかき集められたが、清水の下請け・日本道路は賃金も満足に支払わず、タコ部屋に押し込め、不満が鬱積。その労働者群に奄美からも多くの失業者が加わっており、一時沖縄では県人口の一割近くが奄美人に。林はたまたま平和通りで再会した満鉄時代の同僚が日本道路で働き、賃金不払いが起きていることを知り、早速、奄美出身者らに呼びかけ、労組結成に漕ぎ着けた。
 賃金や労働条件改善を求め、ストを決行すると、運動は清水の採石場や松村組などに次々と拡大。立法院議員になっていた瀬長亀次郎も調査に駆け付け、林の活動を高く評価。これまで人民党にこだわり沖縄共産党結成に躊躇していたことを反省、「すまなかった。これからは一緒に闘おう」と詫びたという(大峰林一『沖縄非合法共産党』)。
 この林指導によるハンストは、日本道路側がスト労働者の解雇撤回を表明するなど、労働者側の勝利に終わるとともに、その後、基地用地の一方的な収奪に抵抗する「島ぐるみ闘争」に繋がるなど、今に至る反基地闘争の先鞭をつけるものになった(中村尚樹『琉球弧に見る非暴力抵抗運動』)。
 私は何度か林に会ったことがある。すでに名瀬で建設業に転身、家屋をそのまま移動する曳家を専門にしていて、「動かせないものはない」と豪語、甲高く笑った。すでに先鋭的な闘士の面影はなかったが、一本気で誠実さが感じられ、好感がもてた。
 奄美共産党の躍進。この項ではそういう展開を構想したが、詳細は数多い先行研究に譲り、沖縄まで乗り込んだ奄美共産党の勢いを林義己で代弁した。
 戦後すぐに奄美タイムス発行の傍ら、同志を糾合して奄美共産党を結成、泉芳朗を説得して奄美大島復帰協議会を立ち上げた中村安太郎。名瀬の一隅で近所の若者と新四谷青年団をつくり、旧来の青年団活動から脱皮した文藝や雑誌発行で仲間の輪を広げ、やがて奄美連合青年団として復帰運動の担い手になった崎田実芳。中村自身が「(復帰運動には)その先頭と中心に、常に郡民と固く結ばれた奄美共産党員がいた。彼らの献身なしには、この壮大な民族運動は成功しなかった」と自賛したように、振り返れば復帰前もその後も長く、貧しい市民や苦境の人々の隊列の先頭には彼らの柔和な顔があった。
 市民はそうした献身から奄美共産党を支持、信頼の証に市や町の議会に送り出してきた。だが復帰運動の後半、激しい反共運動が奄美内部からも吹き荒れる。

「国境27度線」〈第2章赤と白のオセロ〉より
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