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化石の夏
金時鐘
1,800円+税
陶院叢書2 / A5 / 88頁
思想詩人・金 時鐘が自らの詩業を今、見つめ直す! 折々に発表し
た作品を主に編纂。しなやかで強靱、時には赤児の柔らかな心そのま
まに行きつ戻りつする魂の軌跡がここにある。
2023.10.18
猪飼野橋(いかいのばし)
父は手を引かれて渡った
八つのときに。
木の香も新しい橋で
川面にはこぼれた星まで落ちていた。
まぶしいばかりのたもとの電灯(あかり)の日本だった。
二十二のとき徴用にあい
父は猪飼橋をあとに引かれていった。
私は生まれたばかりの乳呑み児で
昼と夜をとり違えては間借りの母を困らせた。
疎開騒ぎも大阪のはずれのここまではこず
遠くで街なかが空を焦がして燃えていた。
私はいま孫の手引いてこの橋を渡る。
猪飼野橋で老いて代を継ないでも
今もってこのどぶ川のその先を知らない。
どこの汚水がここで澱んで
どこの出口であぶいているのか
行き着く先の海を知らない。
猪飼野をただ抜け出ることが夢だった
娘二人も今では母だ。
私とてこのここで迎えの船を待って老いたのだ。
それでも今に運河を逆さに白い船はやってくる。
好きやねん大阪
皆して好きな大阪の はずれの果ての猪飼野だ。
祝福
今年もまた賀状は書かずじまいだ
あらたまる間もなく年は来るので
あいさつはそのまま
国を離れた時のままであるからだ
いつしか言葉までが衣更えをしてしまった
基数詞でさえ行李の底で樟脳づけだし
あいさつ一つこちらではもはや装うことでしか交わせない
だから親しい友ほど言葉がないのだ
朽ち葉に憩う大地のように
うず堆(たか)い賀状の底で眠っているのは私の祝福だ
押しやられてひそんだ母語であり
置いてきた言葉へのひそかな私の回帰でもある
凍(い)てついた木肌の熱い息吹は
とうていあぶく言葉では語れない