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石原時計店物語
石原 実
2,800円+税
一般書 / 上製 / 408頁 / 2013/11 初版
ISBN 978-4-87616-023-5 C0063
江戸時代末期、大阪の地に時計司(時計店の意)を開いてから一六〇有余年の歴史を刻んできた石原時計店。
初代石原萬助が文明開化とともに洋時計(従来の和時計に対してこう言われていた)をいち早く扱ったことに始まる創業から今日に至る大阪の一商店の歴史は商家石原家の推移、取り扱った商品、明治大正昭和にかけての時計店の人々の動き、それぞれの時代背景や著者の思い出などをいろいろと取り混ぜてまとめられている
目次を見ていただくと業界のあゆみ、大阪の商工業の歴史が当時の貴重な資料と共に読んでいただけることがわかる。
ポスターなどは当時の雰囲気を感じられるように一部カラーにしている。
2023.10.19
目次
はじめに 2
第一章 時計商 事始め 8
創業1846年 11
船場商家の話 17
二代目久之助は京都の村田煙管店から 19
明治初期のキリスト教 21
石原家とキリスト教 23
石原、浅田、村田のつながり 25
コラム 一七〇年前の「天保の改革」と七〇年前の「七(しち)・七禁令(しちきんれい)」 27
和時計から洋時計へ 29
不定時法の時代 29
和時計 30
改暦 31
時計が急速に普及 33
大阪の居留地と文明開化 33
当時、時計などの仕入れは商館から 36
時計が急速に普及する 37
明治10年頃の大阪経済 40
当時の大阪~京都間の交通 42
久之助の南久宝寺店 45
商品録(カタログ)販売の時代 49
資料 南久宝寺店の商品録(カタログ) 57
自転車部 225
第二章 心斎橋南詰へ移転 249
商業資本の本場 251
船場 251
島之内と心斎橋 254
コラム 政造の洋行 257
心斎橋石原時計店ビル 260
欧米との時計取引 263
心斎橋店の思い出(昭和の初め頃) 269
昭和10年 後半の心斎橋店 272
石原楽器部 273
楽器部の思い出 282
石原写真機部 283
御堂筋拡幅と地下鉄の開通 286
淀屋橋中央ビル 296
時代は戦争へと傾斜 302
ダイヤモンド、宝石の関税は100% 302
物価統制令、いわゆる「七(しち)・七(しち)禁令(きんれい)」 305
戦争始まる 306
クレセント時計工場 308
第三章 ものづくり 掛時計と懐中時計 311
時計商仲間で掛・置時計の製造に乗り出す 313
掛・置時計の生産始まる 316
掛時計生産継続の問題点 317
日本初の懐中時計製造は日米合弁でスタート 大阪財界の決断 320
国産初の懐中時計が誕生 329
重役陣の人脈で積極的に営業活動 330
懐中時計小型化の流行 332
大阪時計製造株式会社の抱えた問題点 335
大阪時計製造株式会社 解散 石原家の個人事業体となる 338
日本初の民間アルミニウム器物工場が発足 340
砲兵工廠との価格差が著しく操業を中止 342
第四章 戦後 販売に重点をおいて展開 345
戦後 347
石原家の戦後 石原時計精機工場 348
石原時計店の復活を目指す 350
接収解除のそごう百貨店に出店運動 350
新阪神ビル店 352
卸部門開設「アルテミス」30日巻掛時計 354
淀屋橋石原ビル地下一階店舗 355
時計小売店の黄金期はいつまで 356
日本初のオメガ専門店誕生 358
シイベル・ヘグナー大阪支店長との出会い 358
オメガ店の営業実態を視察 359
日本初のオメガ専門小売店が誕生 363
日本のデパートは最大、強力な小売店 368
腕時計などの輸入自由化 369
輸入自由化にともなうオメガ社の動き 371
宝飾品取扱いを開始 379
ビルマから宝石を直輸入 国営宝石オークションに参加 379
スイス時計産業の浮沈 386
スイス時計産業の凋落 スイス・フランの高騰 386
セイコー、世界初のクオーツ腕時計を発売 387
オメガとロンジン合併へ 391
日本では、激震は歪んで伝播 395
石原時計店 セイコー専門店に 397
心斎橋パルコと石原 勉 399
年譜 401
あとがき 405
(第1章 時計商事始め)より
創業1846年
弘化3年(1846)、石原萬助が南久宝寺町三丁目(現・大阪市中央区)付近で「時計司」を創業した。
嘉永6年(1853)ペリーの率いるアメリカ艦隊が浦賀に入港、翌年に再来航して日本に開港を迫ったことにより、安政元年(1854)日米和親条約が締結された。それに先立つ八年前のことである。
南久宝寺町は、「小間物問屋」が多い。小間物とは細物で髪飾りや化粧に関する細々としたものの総称である。(『せんば繁昌記(船場久宝寺町復興三十年記念)』p.69 宮本又次「久宝寺町由来記」)
萬助の営業活動の証として、数年前に入手したのが、前ページ掲載のランプである。江戸時代に使われた菜種油は、現在の灯油などに比べ、粘着性が強く灯芯の中を上昇しにくい性質があったため、点火しにくく、光も弱かった。これをさまざまな方法で解消しようとしたのがこの「無尽燈」または、「無尽灯」である。当時代「からくり師」などと呼ばれた、四人の工匠(技術者)、初代奥村菅次、田中久重、大隅源助、そして大野弁吉がそれぞれ違った仕組みで「無尽燈」を考案した。原理は圧搾空気を利用し自動的に油を灯芯まで供給するものである。当時日本に、もたらされ、気砲とよばれていた空気銃の理が応用されたと言われている。(「江戸時代の科学技術—国友一寛斎から広がる世界」市立長浜城歴史博物館 資料提供 彦根市 片山雅英氏)
本章冒頭の絵が、唯一残っている店舗の絵図である。