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  • 小さき引揚げ者の思想の格闘史
  • 小さき引揚げ者の思想の格闘史

    綱澤満昭

    2,300円+税

    B6 並製 / 264頁 / 2024年12月20日

    ISBN978 - 4 - 87616 - 072 - 3 C0095

    思想からみた近現代作家論!

     

    満州からの壮絶な引揚げ体験当時5歳だった著者のその後の人生を決定づけるしるべとなった。長じるにつれ、一家を満州へと向かわせた農本主義と出会い、やがて思想史研究の道へと分け入っていく。本書は綱満昭いう一人の研究者が一生をかけて出会ってきた様々な近代思想との格闘の記録であり、また近代思想の中で異端と位置付ける作家たちへのオマージュである。

    2024.12.02

小さき引揚げ者の思想の格闘史

小さき引揚げ者の思想の格闘史

綱澤満昭

2,300円+税

B6 並製 / 264頁 / 2024年12月20日

私は四歳から五歳にかけて、満州(現中国東北部)からの引揚げ体験を持つ人間である。父親が満州開拓団の農事指導員として渡満していた関係で、私の生誕地は満州である。父は応召につき、私たち三人(母と兄と私)が、引揚げ体験を持ったわけである。この体験が、のちの私の拙い農本主義研究についての契機となる。
 満州開拓の民間指導者であった加藤完治の薫陶を受け、熱意に燃えて渡満し、心血をそそいで開拓事業に従った父親たちに、もたらされたものは何であったのか。父親たちが「いかれてしまった」ものが、加藤完治の説く農本主義的開拓精神であったことから、私は加藤という人物の思想の究明に走ったのである。
 父親が言語を絶するほどの困窮と屈辱をこうむりながら、なおかつ、日本国家のために、我々の天職はまっとうされなかったと嘆かざるをえなかった精神は、いったい何によって養成されたものであるかを静かに考えた。そして、引揚げに際して、なんの罪もない女、子どもたちに生死の境をさ迷わせた真の敵は誰か、等々が私の胸中に浮上し続けた。こういう思いが大学生になった私を、強く深くとらえるようになる。修士論文は「農本主義の政治機能」であった。

満州からの引揚げ体験に関しては多くの人が関心を持ち、その著書及び論文は枚挙に遑がない。開拓民の多くは、日本国家の国策によって命ぜられるままに、満州に渡った。その大部分の人たちは、日本での貧困状態を脱し、十町歩から二十町歩の地主になれるという夢を追った。国家は、そのような夢を与えたのである。
 敗戦とともに、開拓団員は関東軍にも見離され、異郷の地に孤立無縁の状態でとり残され、流民と化した。その苦難の日々が、恨みがましく語られてきた。満州開拓のメンバーとして、国に殉じた自分たちの行為を「正」とし、その苦悩に絶大なる意味を与えてもらいたい、そして慰めてもらいたいという気持が強い。
 なかでも、ソ連軍の侵攻による恐怖からの、集団自決による悲惨な状況には、確かに目を覆いたくなるものがある。
 一例をあげておこう。
 「兵庫県出石郡高橋村(現在、但東町)の分村だった大兵開拓団は、八月十七日(昭和十九年)、松花江支流のホラン河に入水して集団自決をした。高橋村は、分村開拓団の先達だった長野県の大日向と同じく山峡の村で、谷あいに平均六反の土地しかなかった。昭和十九年(一九四四年)春、浜江省、蘭西県北安村に入植した。十八年(一九四三年)九月、村議会が、県からの分村案をうけいれ、村民の説得がはじまったが、日本の敗色がきざしていたこともあって、県から割り当ての戸数が、なかなかそろわず、最終的には、クジビキで負けたものが加わるということまでして、四六七名をかきあつめた。」(石田郁夫『差別と排外』批評社、昭和五十五年、六六〜六七頁)
 昭和十九年の春に入植して、一年と少しで日本は敗戦となり、この開拓団は引揚げとなる。リーダーを失ったこの開拓団員たちは、彷徨し、不眠、空腹、疲労困ぱいした。誰からも襲撃されたわけでもないのに、「鎌や棒をもって農夫たちが数十人、こちらへ進んでくるのを遠望しただけで、パニックが生じた。まず一人が、妻と三人の娘を河に投げこんだあと、日本刀で立ち腹を切ってから投身した。それから、いっせいに小さい子どもたちから、河に投げこまれた。助けてくれと、あばれまわる小学生を、大人たちがよってたかって、とりおさえ投げこむ。姉に何度投げこまれても泳ぎもどってくる子は、大人に首をしめられてからほうりこまれて、ようやく四百人近くが入水して、ふくれあがった河面に没した。」(同上書、六七頁)

「序 格闘以前の世界」より